まちの紹介

兵藤秀子 (水泳選手)

兵藤 秀子兵藤 秀子(ひょうどう ひでこ)
旧姓:前畑(まえはた)


1914年(大正3年)5.20~1995年(平成7年)2.24

(享年80歳)

功績:
ロサンゼルスオリンピック
女子平泳ぎ200m銀メダル
ベルリンオリンピック
女子平泳ぎ200m金メダル(日本女子初の金メダル)



 昭和11(1936)年8月11日

その日、深夜にも関わらず日本中のラジオからその絶叫が流れていた。

日本で初めてのラジオ国際同時中継が行われたベルリンオリンピック。その女子200m平泳ぎ決勝では、NHK河西省三アナウンサーの願いともいえる「前畑ガンバレ」が連呼された。

日本女子スポーツ界で初のメダルとなるロサンゼルスオリンピックの銀メダル獲得も、周囲からは強い失望の声があがったという。

前畑は、それからの4年間、毎日2万メートルを泳ぐ荒行ともいえる厳しい訓練を続け、万全の体制でベルリンオリンピックに臨んだのである。

しかし、日本中の国民の期待、そして大日本帝国の威信が重くのしかかり、ドイツに向かう船から何度も身投げしそうになったと、著書の中で話している。

その重いプレッシャーをはねのけ、地元ドイツ代表のゲネンゲルとデッドヒートを繰り広げて、わずか0.6秒差の3分3秒6で優勝、日本中が待ちこがれた金メダルを獲得する。

その激闘を伝えた河西氏の実況は日本スポーツ史でもっとも有名なものである。客観主義を至上とする冷静なNHKアナウンサーをこうまで熱狂させた「前畑の泳ぎ」がいかに素晴らしかったかは言うまでもなく、この実況を聞くだけで、その情景を目に浮かべることができる。

兵藤(旧姓 前畑)秀子は大正3(1914)年5月20日、橋本地区(旧橋本町)で生まれている。幼少時から自宅そばの紀の川で泳ぎを覚え、小学校5年生で五十メートル平泳ぎ学童新記録、小学校6年生で百メートル平泳ぎの日本新記録を樹立するなど天才少女とうたわれた。15歳では環太平洋大会の百メートル平泳ぎに優勝した。

しかし、競技生活が順風満帆に見えた昭和6年(17歳)に両親を相次いでなくし、引退の危機に直面する。当時在籍していた椙山高等女学校(名古屋市)の椙山理事長の支援もあり、どうにか水泳を続けることができたである。

その後、ロス、ベルリン五輪を経て引退、岐阜市の開業医と結婚し育児や病院経営の手伝いにと一時水泳から離れた生活を送ることとなる。ところが45歳で夫と死別し、椙山女学園の医務室の仕事をするうち、「やはり水泳の仕事がしたい」と53歳で水泳教室を開業し、子供から主婦まで広く水泳の普及に努めた。83年には脳出血で倒れ、生死の境をさまよったが、懸命のリハビリでプールに復帰、半身麻痺の残る状態でありながら、指導を再開し、平成7(1995)年2月24日に80年間の人生を終えるまで、その一生を日本水泳の発展にそそいだ。

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