Hashimoto City Tourism Association

古川 勝(水泳選手)

古川 勝(ふ るかわ まさる)

1936年(昭和11年)~1993年(平成5年)


功績:
メルボルンオリンピック
金メダル

世界を驚愕させた「人間ノーチラス号」



1956年12月 メルボルン五輪水泳平泳ぎ200m決勝を、圧倒的なオリンピック新記録で優勝した古川を、当時の人はジュール=ベルヌの小説「海底2万マイル」に登場する潜水艇にちなんでこう讃えた。(当時の最新鋭原潜ノーチラス号に起因するとの説もあり)


当時は古川が独自に考案した潜水泳法の全盛期であり、オリンピック決勝に残った8人のうち7名がその泳法を採用していた。しかし、本家本元である古川は他の者の追随を許さなかった。スタートして外国人選手が20~25m付近で次々に浮かび上がる中、古川はなおも潜水を続け、ようやく浮かび上がって来たのはなんと45m地点であった。古川の肺活量は、現在の一般成人男性の約2倍の6000cc近くもあり、それが戦後水泳初の金メダルを同時に出場した吉村氏とのワンツーフィニッシュという最高の形で日本に持ち帰る要因となったのである。


この当時、日本水泳陣はみるみる力を付け、ライバルのアメリカを脅かす存在に成長し「(五輪前年の)日米対抗で勝った選手が、五輪も制する」といわれていた。オリンピックの前年1955年の日米対抗は、古川の200m平泳ぎ世界新記録更新を筆頭に、日本競泳陣が圧勝で終わった。その時の米国監督は「来年の五輪までには日本に負けないスイマーを育てる。ただ200m平泳ぎの古川だけは別だ」と古川に脱帽したと言う。

現在ではスポーツ科学が発達し、低酸素運動や高地トレーニング等、様々な方法が取り入れられ、選手の身体能力も高くなっているが、昭和31年と言う戦争の傷跡が残る日本を考えると、古川の能力と技術がどれだけ優れていたか分かるだろう。


しかし、「強すぎる古川」はスポーツ先進国に恐れられ、この大会を最後に「潜水泳法の禁止」と言うルール改正が断行されてしまう。現在の水泳ルールでは、スタートとターンの前後ひとかきを除き潜水すること自体が禁止されてしまった。この改正は日本の平泳ぎに大きな影響を与え、事実この跡16年間金メダルから遠ける事となったのである。ただ、古川の泳ぎが、競泳の歴史を動かしたことは紛れもない事実である。


古川は奇しくも前畑(兵藤)秀子が金メダルを獲得した1936年の1月6日、前畑と同じ古佐田地区に生まれている。古川の生家は紀の川に面しており、子供の頃から川底まで潜ってうなぎを取っていたという。橋本中学校に入学し、水泳部に入部。校内水泳大会の平泳ぎで優勝し、その様子を見ていた前畑から「平泳ぎが向いている」との指導を受け、平泳ぎに専念したとの逸話が残っている。その後も、数々の大会で記録を更新し、世界屈指のスイマーとして名前が知られるようになっていった。


古川は、現役を退いた後も、若いスイマーの育成に情熱を捧げた、肺がんのため57歳という若さでこの世を去ったが、死の直前まで指導を行った。携帯用酸素ボンベを傍らに置いてプールサイドに立つ姿は今も語り草である。

はしもとの偉人

兵藤秀子 (水泳選手)
古川 勝 (水泳選手)
応其上人
大畑才蔵
岡 潔(※奈良女子大学附属図書館のページに移動します)