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恋し野の里 中将姫略縁
 中将姫は従一位右大臣横佩の朝臣藤原豊成の息女で、祖父は五條市栄山寺に墓碑のある 藤原武智麻呂(藤原鎌足の孫)、母は品沢親王の息女で紫の前と云う。初瀬の長谷観音に祈願して誕生したのが中将姫で、時に天平19年(747年)8月18日日の出前。4歳の時称賛浄土仏摂受経を学び、5歳の時、母は病床に伏し死別す。7歳の時、父は、橘諸兄の息女照夜の前を後妻とす。8歳の桃の節句に宮中で宴会あり、姫は琴の役、照夜の前は笙の役をつとめたが、この時継母は不覚をとる。義弟の豊寿丸も誕生し、一方姫は成長するにつれて容姿端麗で英知に富み何事にも優れていたので帝から中将の位を賜る。このころから継母は次第に姫を憎むようになり、無きものにと姫殺害の謀計をたて、家臣の山下藤内載則に実行さすも、息子小次郎則重が姫の身代わりとなり助けられた。その後、地獄谷に捨てられた時や竜田川の難も共に救われている。
 10歳の時、毒甘酒による難も杯を取り違えた豊寿丸が死亡し姫は助かっている。14歳の春継母はなおも謀計すてがたく、父豊成が諸国巡視の留守中に、松井嘉藤太に命じて、大和と紀伊の境にある雲雀山に誘き出して殺害させようとするが、嘉藤太は慈悲の心が甦り罪もない姫を殺すことが出来ず太刀を捨て(故に雲雀山を一名太刀捨山とも云う)姫を残し一旦都に帰り、妻のお松と共に「恋し野の里」の雲雀山に戻り、これより十三仏に守られつつ、2年3ヶ月間、この地で姫を育て、聞くも悲しい生活に耐えたと云われ、その旧跡が、「恋し野の里」に数多く残されている。15歳の時、嘉藤太が死亡し、16歳の時、父豊成が猟に来て姫と涙の再会を果たし、温情に優る里人達と別れを惜しみつつ都に帰り、17歳に当麻寺で剃髪して法如比丘尼となり、かの有名な藕糸曼茶羅を織り上げたが、宝亀6年(755・・・弘法大師誕生の翌年)卯月14日、25菩薩に迎えられ、29歳を一期として波乱であったが清らかで英知に満ちた生涯を閉じた。

中将姫旧跡保存委員会

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