

神功皇后が外征後、筑紫路を発し、紀伊衣奈浦を経て大和の都に御還幸の途次、輩をこの地に駐め滞留されし旧跡にして、欽明天皇の詔により(859)八幡宮が歓請された。のちに、この地が石清水八幡宮の社領となり、当神社を「隅田の別宮」と称された。
長治二年隅田荘内の豪族で隅田党の祖、長忠延が当神社の社務を司る俗別当職となり、次いで隅田荘の荘官である公文職にも任じられた。その後代々両職に任じられ、鎌倉時代以降は隅田党の氏神として社頭堂塔も備わり、祭式を厳にして栄えた。永録三年、松永弾正久秀の攻略によって社殿が焼失、慶長年間に再建され、江戸時代になると隅田荘十六ヶ村の産土神として繁栄した。社殿は、文政二年焼失するが同五年には再建され、今も壮麗で住古を偲ぶことができる。明治時代の神仏分離で、当神社の神宮寺の大高能寺が分離される。大正五年県社になる。 |