平安末期の悲話

石童丸物語が今に甦る

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「石童丸(いしどうまる)物語」のあらすじ
 苅萱道心は、もと加藤左衛門繁氏(かとう さえもん しげうじ)といい、平安末期(十ニ世紀後半)、筑紫(つくし)の国(福岡県)の領主でした。

 繁氏は、妻桂子(かつらこ)と共に、平穏に暮らしておりましたが、父の旧友朽木尚光(くちき なおみつ)の遺児千里(ちさと)の不幸な境遇に同情し、自分の館に引きとったことからこの悲劇が始まりました。

あるとき、表面は仲睦まじい二人の女性の本心を見抜いた繁氏は、わが身の罪の深さに驚き、家も地位も捨てて京都に上り、はじめは法然上人(ほうねんしょうにん)の弟子になりました。その後高野山に登り、蓮華谷(れんげだに)に庵(いおり)をむすび、苅萱道心と称して、修業の生活に入りました。

 繁氏の出家直後、千里が一子を出産しましたが、その子には父の幼名をとって石童丸と名付けました。
 石童丸が十四歳になったとき、繁氏が高野山で出家しているという噂を耳にし、まだ見ぬ父に会いたい一心から、母と共に高野をめざして急ぎました。

 ようやく山麓学文路の宿までたどりつきましたが、そこには”女人禁制(にょにんきんぜい)”というきびしい山の掟(おきて)がたちふさがっていました。

 石童丸は、母を宿に残し、一人で山に登って父の行方をたずね歩きました。たまたま「無明(むみょう)の橋」の上で一人の僧と会いました。

 石童丸の話を聞いた僧の顔色が一瞬変わりました。この僧こそ、苅萱道心その人だったのです。しかし浮世を捨てて仏門にはげむ繁氏には、親と名乗ることさえも許されず、「そなたのたずねる人は、すでにこの世の人ではありません。」といつわって石童丸を母のもとへ帰しました。

 学文路に戻った石童丸を待っていたのは、母千里がわが子の帰りを待ちわびつつ急病で亡くなったという悲しい知らせでした。

 悲しみにうちひしがれた石童丸は、再び高野に戻って苅萱道心の弟子となりましたが、生涯父子の名乗りをすることはありませんでした。
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